スポーツナビにて連載企画「ザスパ草津 知られざる10年史」がスタート。

SH772005-04-21

関連エントリーはこちら。http://d.hatena.ne.jp/SH77/20050413#1113363520に。
スポーツナビより。連載第1回目は「リエゾン草津という序章」というタイトルでザスパ草津のJでの苦戦と簡単なチーム紹介、そしてザスパ草津の前身で、東日本サッカーアカデミー専門学校のチーム「リエゾン草津」に話が進んでいきます。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/jtoto/column/200504/at00004541.html
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/jtoto/column/200504/at00004542.html
以前エントリーで紹介した、NHK生活人新書から「サッカーがやってきた ザスパ草津という実験」と重複する内容が多いのですが、この書に加わる新情報の注目部分をピックアップします。記事の引用は、95年にスタートし順調に進んでいたリエゾン草津が、98年には成績も運営もままならずアカデミーの閉鎖を選手たちに告げる、からです。

●残るか、去るか、という二者択一
・・・学校とチームの経営状態は悪化の一路をたどっていった。アカデミーのカリキュラムも、かなりいいかげんな内容になってしまい、生徒たちが次々と離脱。ついには、寮の維持費をまかなえない状態にまで追い込まれる。
オフを終えた選手たちを待っていたのは、「東日本サッカーアカデミーの閉鎖」の発表であった。経営陣は撤退し、選手たちは寮にいることもできなくなってしまう、まさにチーム存続の危機。自腹を切ってでもここに残り、サッカーを続けるか。それとも、ここでチームを去るか。寮の会議室に集合した選手たちは、その場で二者択一を迫られた。
●無名選手が繋いだザスパへの「夢」
結果としてリエゾンは、一時期4名にまで減少することになった。彼らは草津町に家を借りて、狭い部屋の中で集団生活を続け、朝も夜も働きながらリエゾンを存続させたのであった。とはいえ、当然ながら4人では試合はできない。そのため地元サッカークラブに頭を下げ、また以前にリエゾンに在籍してた選手たちにも「試合だけでいいので来てほしい」と連絡を取り、何とかこの年の群馬県リーグ2部の開幕に合わせることができた。

ここまでは「ザスパ草津という実験」でも語られていますね。この続きです。

ここでひとつの疑問が生じる。監督は誰が引き受けたのだろうか。またチーム運営は誰が行っていたのだろうか。その答えは、4人のメンバーのひとり、木村直樹であった。リエゾンの生え抜き選手であり、またチームのキャプテンでもあった木村は、何とこの時期、監督も運営もひとりでこなしていたのである。寮も使えないし、練習場も使えない。そんな八方ふさがりの状況の中、木村をはじめとする4人の選手たちは、練習場確保のためにさまざまな方面にしらみつぶしに当たった。

この時期が「グラウンドを草津町民として貸してもらうために、みんなで住民票を草津町に移し、それでも使用許可を渋る町役場の担当者に『グラウンドを貸してください』と何度も頭を下げにいった」と伝えられるわけですね。その具体的な活動を行なっていたのが、現在はザスパ草津サテライトコーチの木村さんだったのですか。ありがとう木村さんと3選手。「リエゾンは解散だ」と、全員が草津町を出て行ってしまっていたら、ザスパ草津の今の姿は無いわけですからね。この時の4名にザスパ草津に唯一、選手として在籍している堺陽二も入っているのでしょうか。やはり彼には長くザスパ草津で頑張ってもらいたいですよね。開幕戦で途中出場してJデビューを果たし、先日の水戸戦では先発出場でしたしね。

やがて地元の旅館を中心に、木村たちの努力を理解し、協力してくれる人たちも現れるようになる。そこで生まれた関係が、のちにチームがザスパ草津となってから、選手たちが働く「プレイヤーズパートナー」となり、さらには地域との「パイプ役」へと発展していくのである。またこの時、支援者の一人から「何とか1年我慢すれば、翌年から協力する」という言葉をもらい、選手たちは必死になってチームを存続させたのである。
時には11人集まらず、9人で戦った試合もあった(それでも勝利した)。かくして激動の99年、チームはかろうじてリーグ戦を戦い抜き、何とか2部残留という最低限の条件をクリアしたのである。

この後、なんとか1部に返り咲くもやはり先行きが不透明ということで、現ザスパ草津運営陣と総監督の植木さんが経営アドバイスのために草津町を訪れることになるわけですね。この連載の第2回目以降も非常に楽しみです。